- 成功ノウハウ
生い立ち、それは波乱万丈のはじまり。
2022/11/22
社長ブログ
2022/11/22
皆さんこんにちは。
株式会社フューチャーブレーン
代表取締役社長の佐藤剛(サトウゴウ)です。
この会社も創業17年。
これから全国・世界への展開を
視野に入れていく中で
フューチャーブレーンの考え方の根本と根源が
どこからきているものなのか
改めて私、佐藤の生い立ちに沿って
皆さんにお伝えしたいと思います。
私はダメダメ人間だけど
もうダメだーと思ってもなぜか諦められなかった。
賢くない自分に唯一できることは
何だろうと考えてみると
お世話になった人の言葉と恩を忘れないことでした。
私は、1969年東京の信濃町にある慶応病院で
大きな産声を上げました。
サイズは3,190グラム、49センチと
母子手帳に記載されていました。
経営者を目指すに至った最初の思い出を振り返ると
確か4、5歳の頃かと思います。
私のことを
「一企業の社長」や
「美容ベンチャー企業の社長」として
知ってくださっている方は
どんな派手な生い立ちなんだろうとか
想像されるかもしれませんが
その思い出は当時住んでいた
裸電球が揺れる狭い4畳半一間の
木造アパートが始まりです。
父がその狭い4畳半のアパート部屋に
1枚のレザー(牛革)を広げて
「これから起業し成功させるんだ!」と
目をキラキラと輝かせながら話す姿を
すごく幼いながらも鮮明に覚えています。
父はもともと大手電機企業のサラリーマンでしたが
私の祖父がアパレル関連事業の工場を経営し
活況を呈していたこともあり
大手企業を退職し手伝うことになったようでした。
その祖父の経営する工場は
戦後間もなく日本の立て直しを図るなか
地方の地域活性化が功を奏し
なんとあの米軍のマッカーサー元帥が
祖父の工場を視察に来るほどで
今でもその写真は大切に保存されています。
父も祖父の元で働くこととなったのですが
その後、祖父と折り合いがつかなかったのか
あの4畳半一間の部屋で
幼い私にたくさんの夢を語り独立を決意するのです。
私がまだ小学生になる前の出来事ですが
会社をもつこと、起業することが
明るい未来を切り拓く輝かしいものだと
なんとなく感じたのを覚えています。
これが私のルーツです。
そうして全国を飛び回っているうちに
父の会社はどんどん形になっていき
東久留米のアパートの一室から
小学校1年生の時には
目黒の一軒家で1階が会社で2階が住居。
そして、小学校4年生には、
家と会社を分けられるようになり
自宅は世田谷・弦巻の洋風の家へと引っ越し
会社はアパレル系の中心地でもあり
当時の得意先が多かった
表参道に構えるまでになりました。
表参道というと
今はスーパーブランドが立ち並ぶ
ケヤキ並木通りが有名ですが
当時のケヤキ並木通りの週末は
ワゴンが立ち並ぶバザーが週末開催され
それはまるでお祭り騒ぎのようで
とても多くの人で賑わっていました。
私も小遣い稼ぎのために
毎週末このバザーの手伝いをすることで
品出しと販売を覚えていきました。
当時は高度成長時代だったので
ワゴンに品出しすると
すぐにお客さんが飛びつき完売するほどでした。
今では考えられないことですけど
それほど人は物欲に飢えていたようです。
父はアパレル関連の中でも
特にベルト・傘・アクセサリー・スカーフなどの
小物や雑貨製造していたので
毎週取り合いになるほど
飛ぶように売れていくのを傍で見ていて
「頑張れば必ず努力は報われて
どんどん良くなっていくんだなあ」と
父の姿から学ばせてもらいました。
さて、私の母はというと
美術大学を卒業したのち
漫画界の巨匠 手塚治虫さんの弟子として
手に職を持ちクリエイティブな仕事をしていました。
皆さんもご存じの「鉄腕アトム」や
「ジャングル大帝」などの有名な作品を
手塚師匠の元で手掛ける漫画家だったのです。
漫画家という仕事に誇りを持っていた母でしたが
当時、女性は家庭を守るものという
風潮だったこともあり
私の妊娠を機に仕事をやめたそうです。
後々、私が高校生になったころ
実は…と母が当時のことを
話してくれたことがありました。
当時一緒に虫プロで働いていた同期の男性が
どんどんと漫画家として成功し
手塚師匠と並ぶくらいの
巨匠と呼ばれるまでになったことを
嬉しさ半面、
自分は女性だからチャンスを失ったのだと
寂しい顔をしていたことを覚えています。
まさに
自分も辞めず漫画家の仕事を続ければ良かった
とそう言って悔やむ母の姿を
目の当たりにしたわけです。
自分の置かれる環境や
お付き合いする男性や夫によって
自分の可能性や夢を諦める女性が
たくさんいることを母の口から知りました。
仮にそれなりの能力があったとしても
諦めなくてはならない現実があることを知り
高校生ながらとても残念で
悲しい気持ちになったことを覚えています。
でも、そうはいっても当時は子を持つ母であり
一人の女性が仕事を続けることは
かなり難しい社会だったのだろうなと
そんな母の背景から感じ得ました。
そんな幼少期を過ごした私は
その後
小学校から大学まで学生時代を過ごしますが
一言でいえば、とても手のかかる学生でした。
ですが同時に
沢山の方々の言葉の力に救われた時期でもあります。
小学校では
国語の時間に粘土遊びをするような子供でした。笑
しかしこれはまだまだかわいいもので
中学校以降、父のスパルタ教育が始まり
私はもっと反抗的になっていきました。
有名校へ進学させるための父のスパルタ教育。
当時は手をあげるのが普通の時代だったので
そんな父が嫌いで
父の姿を見るだけで恐怖で震え
どんどん反抗的になり勉強せず
次第になんとなく
不良仲間とつるむようになっていきました。
そんな中学2年生の3学期
私は「勘当する」という言葉を
初めて知ることになります。
いわゆる、家族の縁を切る、ということですね。
福井県の永平寺という
素晴らしいお寺をご存じでしょうか。
確か当時それなりの問題を抱える少年や
小さな子供がそこに預けられ
厳しい寺修行をさせられていました。
勘当、いわゆる家族との縁を切り
一人で働いて自活するか。
もしくは永平寺に行きそこで頭を丸め
朝早くから修行の毎日を過ごすか。
はたまた自分自身を更生させ
まじめに勉強し高校を受験するか。
自分で決めろと父から言い放たれました。
まだ中学生の子供が自分一人で稼ぎ
衣食住を守るのは当然無理な話です。
かといって丸坊主になって
お寺の境内を毎日掃除し厳しい修行をすることに
耐えられそうにもありません。
そこで私はやっと更生し
高校受験をする道を選びます。
ところが…
今までつるんでいた不良仲間たちは
それを決して許してくれませんでした。
その日からそれまで仲間だった友人が
全員敵になりました。
私はたった一人
裏切者として風当りが強くなり
元々仲が良かった仲間たちから
毎日嫌がらせを受けることになります。
今でいう「イジメ」のようなものでした。
いま思えば漫画のような話ですが
「サトウゴウ、死ね」と
中学校のコンクリートの壁面の全面に
青色と黄色のスプレーで落書きされ
先生たちも見て見ぬふりで知らぬ存ぜぬ。
誰が見ても分かる壁面に書かれたこの落書きに
触れた先生や人はなく
これはなんと私が卒業するまで残っていました。
負けず嫌いの私は
学校では喧嘩の毎日、家では猛勉強の日々。
親に心配をかけないように
昔の仲間からの嫌がらせと喧嘩は黙っていましたが
さすがに母は気づいていたかもしれませんね。
自業自得とはこういうことかと
辛く、耐えがたい、反省の毎日でした。
噂は広まるのが早いです。
近所からも
あの子は大丈夫なのかという目で見られ
そんな環境の中でだんだんと
「自分はどうしようもないんだ」と
自分で自分を諦めてしまいそうになりました。
そんな時
私の心の支えになったのは
それでも支えてくれた人達からの「言葉」でした。
転校する前の
目黒区の小学校1年生の恩師が
「お前は大器晩成だ」と言い続けてくれたこと。
困ったことがあればみんな相談に行くような
人望の厚い万事屋のおばあちゃんが
「お前は大丈夫やで、大物になる」と
私にも母にも言い聞かせてくれたこと。
中学生時代はなんとなくで生きていける
人生じゃなかったですが
言葉は死なない、生き続けると感じました。
この苦い思い出から振り返ると
私が人からの言葉を大切に考えるようになったのは
この時期からだったと思います。
そしてなんとか反骨精神の力を借りて
偏差値70くらいまでは成績を取り戻すことができ
祖父・父と同じ中央大学の付属高校に進学します。
結果的に偏差値35→68に上げることができましたが
それは孤独との闘いでした。
恥ずかしい話ですが
痛い目に合ってはじめて
人を大切にしなければならないと
身をもって実感した中学時代でした。
高校入学後も継続して
死ぬほど勉強する学生でした!
といいたいところですが…
日本人は特に
入学や入社がゴールですよね…笑
高校・大学時代は毎日
テニスやスキー、ウインドサーフィン、バーベキュー
渋谷・新宿・六本木を回遊してディスコ、パーティー
こればかりでした!笑
今でいうパリピですかね。
勉強はしなかったかわりに
学生時代からイベント企画やサークルをつくったり
実家のアパレル関連の家業を継ぐために
セレクトショップのSHIPSで
アルバイト漬けの毎日で
ただただ自分なりに将来を見据えた
4年間を過ごしました。
余談ですが
当時の店長が今
SHIPSの代表になられていて
今でも当時の仲間たちとはつながっていて
たまには飲みに行ったり
中には一緒に海外旅行に行く先輩もいたりします。
そして、就職活動がスタート。
父からも実家を継ぐのなら
アパレル業界最大手にと言われたのもあり
私はオンワード樫山に入社します。
当時、業界への偏見がかなりあった時代です。
大卒は金融に行くのが華だとされていて
飲食業界=水商売だ、なんて時代です。
アパレルも同じく
大卒が行くとこじゃないぞと
当時の偏見の塊の中で戦いました。
また父の会社がメインで製造していたのは
アパレルの付属の小物関連、
雑貨品(ベルト、ネクタイ、スカーフなど)で
当時は東京コレクションというものが流行し
数々の著名なデザイナーの依頼を受けていましたが
だからこそ主役となる「服」をやりたい!
そんな思いが強くなりました。
しかし、怠けてしまったのですね。
本気になればデザインを専門的に学ぶために
大学に通いながら
文化服装学院などの服飾専門学校に
通うこともできたはず。
≪デザイナーになって
ファッションショーの最後に挨拶する≫
そんな夢を強く思い描いていたのにも関わらず
結局は流されて
遊びばかりの生活を送ってしまったのです。
大学時代にできる限りの努力ができなかったこと。
いつもどこか親に守られているし
経営者の父を見返せないし。
当時を振り返るともったいなかったなと
すごく後悔しています。
要するに
社会と世の中をなめていたのでしょうね。
そんな風にして社会に出た私に
天が最初に巡り合わせてくれたのが
「A係長」という人物でした。
この出会いが自分の生き方を
大きく大きく変えてくれるのでした。
次に続く。
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